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さほりさんの自虐史観からの脱却

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2015年 07月 26日

日本兵と結婚する慰安婦もいた―ビルマ・ミッチーナにおける米国戦時情報局心理作戦班「朝鮮人慰安婦」尋問報告書②

  水間政憲著 PHPより

1944年10月1日、ビルマ・ミッチーナにおける
 米国戦時情報局心理作戦班「朝鮮人慰安婦」尋問報告書

アメリカ戦時情報局心理作戦班/アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域所属/アメリカ陸軍郵便局689番

日本人戦争捕虜尋問報告書 49号
尋問場所:レド収容所
尋問期間:1944年8月20日~9月10日
報告年月日:1944年10月1日
報告者:T/3アレックス・ヨリチ
捕虜:朝鮮人慰安婦20名
拘束年月日:1944年8月10日








■料金制度
 慰安婦の労働条件は陸軍によって定められており、人口密度の高い地域ではとくに厳格な規定が適用された。陸軍は混雑地域では
料金や優先順位、そして当該地域での作戦に従事する部隊ごとの利用割り当てを明確化した制度を設ける必要があると考えた。
尋問によって判明した利用制度は次の通りである。

一、兵    十~十七時    一・五円  二〇~三〇分
二、下仕官  十七~二十一時  三・〇円  三〇~四十分
三、将校   二十一~二十四時 五・〇円  三〇~四十分 

 これは、中部ビルマにおける平均的な利用料金である。将校は二〇円で宿泊することも認められた。ミッチーナでは丸山大佐が
料金を値切り、平均価格の半値ほどにまで引き下げていた。

■利用割り当て
 兵士は慰安所が混雑しているとして不満を漏らすことがあった。軍は時間延長に厳しかったため、サービスを受けずに引き返さざるを
得ないことがたびたびあったのである。この問題を解決するために、軍は部隊ごとに利用日を割り当てることにした。通常、該当する
部隊から二名の人員が遣わされ、慰安所の入り口で隊員を識別する役割を果たした。また巡回中の憲兵も秩序の維持に努めた。
第18師団がメイミョーに駐屯した折に「キョウエイ」慰安所で適用された部隊割り当てを次の記す。
 
日曜日 第18師団司令部
月曜日 騎兵隊
火曜日 工兵隊
水曜日 休業日、定期健診
木曜日 衛生態
金曜日 山砲兵隊
土曜日 輜重隊

 将校は週七日の利用が認められていた。慰安婦からは、この割り当てをしても混雑が解消しきれず、すべての客を相手にできないため
多くの兵士間にわだかまりを残してしまうという不満も聞かれた。
 将兵は慰安婦を訪れて料金を支払い、約五センチ四方の厚紙でできた利用権を受け取る。利用権の左側には料金、その反対側には
慰安所の名称が書かれていた。利用者はそこで身分または階級を確認され、その後「列に並んで自分の順番を待った」。
慰安婦には客を拒否する権利が与えられており、客が泥酔している場合などはしばし接客を拒否した。

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■報酬と生活環境
 「楼主」は慰安婦が契約時に負った負債の額に応じて、その稼ぎの総額から五〇%ないし六〇%を徴収した。
計算すると、慰安婦の売り上げは平均的な月で一五〇〇円程度となり、そのうち七五〇円以上が「楼主」に渡されていたことになる。
「楼主」の多くは食事やその他の備品に高い値をつけ、慰安婦の生活を圧迫した。
 一九四三年下期に入ると、軍は借金を返済し終えた一部の慰安婦の帰郷を認めるという命令を出した。慰安婦の一部はこれにより
朝鮮に帰ることを許された。
 女性の健康状態は良好であったことが尋問所により判明した。慰安婦には各種の避妊具が十分提供されており、利用する兵士が
軍から配給された避妊具を持参するケースも少なからずあった。衛生面に関しては、自己管理も利用者への配慮もしっかり教育されて
いた。週に一回、日本軍の正規の軍医が慰安所を訪れ、罹患していると認められた慰安婦は治療を受け、隔離され、のちに入院措置を
受けることになった。陸軍の部隊内でも同様の診察が行なわれたが、興味深いことに兵士は入院してもその間の給与が支払われた。

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■日本兵に対する反応
 慰安婦と日本の将兵との関係において、重要人物として名前が挙がったのは二名のみであった。具体的にはミッチーナ駐屯部隊
指揮官の丸山大佐と増援部隊を率いてきた水上少尉である。両名は正反対の人物で、丸山大佐が厳しく利己的で、部下への思いやりに
欠けた険悪すべき人物であるのに対し、水上将は心の優しい好人物であり、軍人としても立派で、何よりも部下を思いやる人物で
あった。大佐が慰安所に入り浸っていたのに対して、小将は一度も慰安所を訪れなかったようだ。丸山大佐はミッチーナ陥落後に
逃亡したようだが、水上小将は部下を撤退させられなかったことを悔やんで自決した。

■兵士の反応
 平均的な日本兵は「慰安所」で見かけられることを恥ずかしく感じるようで、慰安婦に一人は「混んでいるときに順番待ちをして
いるのを見られると、たいてい恥ずかしがる」と語っていた。そんななか、慰安婦に結婚を申し込むものも数多くあり、実際に
結婚に至ったケースもある。
 接客をする際に一番性質が悪いのは、酒に酔い、しかも翌日に前線行きを控えた将兵であると、どの慰安婦も口をそろえて言って
いる。だが、同じく全員意見が一致しているのは、酒に酔っていても日本兵は決して軍事的な事柄や秘密を語らないということで
あった。軍に関わる事柄を慰安婦の方から話題に出しても、将校や下仕官は決して語らず、むしろ「そのような話題は女性にふさわ
しくない」とたしなめられた。丸山大佐でさえ酔っていてもそのような話題を口にすることは決してなかった。
 兵士はよく、故郷から送られてくる雑誌や手紙や新聞をどれほど楽しみにしているかを語った。また缶詰や雑誌、石鹸、ハンカチ、
歯ブラシ、人形、口紅、下駄などが詰まった「慰問袋」のことも話題にあがった。口紅や下駄は女性ものであり、慰安婦からすれば
なぜそのような品々を故郷の人が送ってくるのか理解できなかった。送り主が自分のこと、あるいは「本土の女性」を思いおこさせ
ようとしたのではないか、というのが慰安婦たちの推測である。

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ラングーンからビルマの各地へと派遣された慰安婦の行き先は、
アメリカ軍に攻略される前は平和であった。
そして、ビルマは独立し、日本軍は好意的に迎えられていた。
ビルマの独立後の自由な空気の中、慰安婦たちも買い物や、外出を楽しんでいました。


そういう事実が韓国にかかると、強制連行や性奴隷となるのです。
たしか性奴隷という言葉を最初に表明したのは、アメリカのクリントン大統領だったと記憶している。
「性奴隷といったらいいんじゃね」みたいなノリで。

慰安婦の方にもたくさんの自由があったことをお伝えしたく思い

1944年10月1日、ビルマ・ミッチーナにおける
 米国戦時情報局心理作戦班「朝鮮人慰安婦」尋問報告書
を引用しました。


 


by sahorikita | 2015-07-26 17:53


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