2015年 09月 22日
森川万智子氏が文玉珠さんの証言をまとめた『文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』 (1996年2月1日、梨の木舎)出版 森川万智子氏の著書を参考に水間政憲氏がまとめられた上記の本の内容を 紹介したいと思います。
■妓生として生きる決断をした文玉珠さん 文玉珠さんは、妓生で生きると決断するまでの生活環境について、「なにかの都合で母が仕事をさせてもらえないときには、 一日も二日も食べるものがないことがあった。わたしは鍋を抱えて坊さんのように近所をまわって、・・・・・・「食べるもの がぜんぜんありません。余ったごはんがあったらください」といって・・・・。何度も行く家のおばさんから『こんな大きなな りをして、働かないと乞食になるよ。子守や掃除をしたらごはんをあげるから、働きなさい』といわれ・・・・喜んで働いたも のだ。七、八歳のころだった」『(文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(構成と解説・森川万智子:1996年 二月一日、梨の木舎 上の写真の本からの引用)と語っていました。以下、同署からの引用文の出典は「前書」と記載します。 文玉珠さんが妓生(キーセン)養成所に入る決断をしたときの実兄とのやり取りは、当時の朝鮮半島での妓生に対する一般的 な見方として参考になります。 「キーセン修行―――――十八歳:やはりキーセンになるしかない。十二歳のときに兄が、『両班の家の娘が女郎になりたいと いうか』といってわたしを殴って反対した。酒をのんで、歌をうたって、男の性の相手をすれば金になることを知っていた。 どうせ普通の結婚はできない。どのように考えても、キーセンになることなしにわたしの未来はなかった」(前書)と語ってい たことは非常に重要です。 それは、文玉珠さんも兄も当時、「妓生=女郎(売春婦)」との認識をもっていたことに加えて、妓生を「酒・歌・性」の 三点セットと考えていたからです。 もうひとつ重要なことは、文玉珠さんが十二歳のとき、すでに妓生になるのを決断していたことです。 ここで、文玉珠さんの非常に重要な証言を引用します。それは「タルソン検番に改めて入学した」(前書)と、一度入学していた のを認めていたことです。それは当然のように十二歳のときになるでしょう。となると、妓生養成所に入ったのは、文玉珠さんの 方が金学順さんより早かったことになります。文玉珠さんの決断は、貧しさの度合いから当然のような流れです。 そして、「芸事はなにもかも得意だったから、習うはしから身についた。とくにパンソリは、うたうことも、鼓手として太鼓を たたくことも師匠たちを驚かせるほどうまくできた・・・・声を張り上げ、こぶしを回してうたうと、気持ちが大きくなって清々と した」(前書)と、芸事の才能について語っていました。 ここで「こぶしを回してうたう」とありますが、我が国でも「こぶし」は演歌に取り入れられています。ただし、もともとは 朝鮮半島の旋律だったのです。淡谷のり子さんは演歌がきらいで、「戦前にはなかったのよォ~」と、常日頃、顔をしかめておしゃ っていました。 文玉珠さんは物覚えがよく、妓生修行を一年足らずで修了し、妓生として働いたときに、募集広告を見て旅館へ向かっていったの です。 ■「騙されて」慰安婦にされた文玉珠さんたち 文玉珠さんは「食堂の仕事」の募集広告で指定された釜山の旅館に複数の顔見知りがいて驚いたり、娘たちを引率するのが 顔見知りの朝鮮人「マツモト」だったり、また「六十歳を過ぎた朝鮮人の男と、その甥がいた」などと語っていることから、 この業者たちは朝鮮人だったことがわかります。 一九四二年七月十日、釜山港から南へ行く岸壁には、娘が150人から200人くらい集まっていたとのことです。 そして、「15人から20人くらいに1人か2人、マツモトのような中年男がついていた・・・・・船は6000トンほどの貨物船 だった」と、ミッチーナでの慰安婦の尋問調書と重複するところがかなりあります。 文玉珠さんが、これから語るビルマでの慰安所生活では、米軍がミッチーナで作成した尋問調書を裏付ける証言が繰り返し 出てきます。 文玉珠さんは、募集広告に応募したときから「慰安婦」と薄々わかっていたようです。それは、普通に「食堂」の募集広告 と信じていたのなら母親に行き先も仕事も隠す必要がなかったにもかかわらず、「母にさよならもいわずに出てきたことは 間違いだったのではないかと思い、涙がはらはらと落ちた」(前書)と語っているからです。仕事の内容を察知して応募した からこそ、家出同然のように出てきたのです。 文玉珠さんは、「騙されたとわかったときの娘たちの様子を「娘たちは天地がひっくりかえるぼど仰天した。ピー屋が何を するところか、知らない娘もたくさんいる。(前書)と語っており、43頁の『朝日新聞・南鮮版』の記事と重複するような 内容です。 実際、騙されたと知った文玉珠さんは「ああ、やはりそうか・・・・マツモトの様子がなにか変だったし、何か直感する ものがあった・・・・だましたマツモトにくってかかる娘もいた」(前書)とあり、このような事例が日本人にすりかえられ ていることは否めません。 そして涙が涸れた娘たちに向かって朝鮮人のマツモトは、「軍人の相手をすれば金になるから我慢して働くこと。軍人は 切符を持ってくるからそれを受け取って、1日分ずつを自分に渡すこと、朝鮮に帰るときに切符を合計した額を四分六に分けて 六分をわたしたちに渡すからしっかり働くように、などと説明した」(前書)といいます。こうしてビルマでの文玉珠さんたち の慰安所生活がスタートしたのです。 ■ 43頁の『朝日新聞・南鮮版』の記事と文紹介 『大阪朝日新聞・南鮮版』(1939<昭和14>年3月30日付け)の記事 ■日本の官憲が拉致・誘拐していたと韓国が批判する犯人は朝鮮人だった 現在、世界中で日本の官憲が朝鮮人を「奴隷狩り」(拉致・誘拐)していたと暄伝されていますが、実際は、すべて朝鮮人の 犯罪だったのです。戦前の朝鮮半島では朝日新聞と毎日新聞が「朝鮮版」を発行していたのであり、怪しげな元朝鮮慰安婦の 証言よりも事実が確認できるにもかかわらず、いっさい自社の新聞を精査しないのは、「真実を報道すると都合が悪いから」と しか思えません。 本頁と上の記事は、同一犯の事件の報道です。この記事は、『毎日新聞・朝鮮版』でも報道されていました。 現在も北朝鮮では、冷害で餓死者が大量に出ていますが、当時の朝鮮半島の山地には、「火田民」と呼ばれた焼畑農業をして いた農民が多数おり、食いつなぐために娘を売ったりすることは頻繁にあったのです。 そのような状況での人身売買でなく、より悪質な拉致・誘導を生業にしていた者がいたことも事実だったのです。 朝鮮総督府が、そのような悲惨な「火田民」を救済するために、「北鮮開拓地域内における農耕適地調査はこのほどだいたい 終了したので、近く実施測量に着手しその完成を持って後、いよいよ昭和10年度から一般に解放することになった。適地面積は 測量を待った上でなければ正確に判明しないが、火田民の定着用地を除き一般に解放すべきものは約十万町歩の巨面積に上る見 込みである」と、火田民を特別枠で優遇していたことも『朝日新聞・朝鮮版』は報道していました。 文玉珠さんは、貧しさから自分自身で妓生になることを決心し、マツモトという朝鮮人に騙されて、 ビルマのミッチーナで慰安婦生活を送ることになったのです。 創始改名は、「日本が名前を奪ったのではなく、朝鮮名だと信頼されにくいことから日本風の名前に変えて欲しいという、 朝鮮人が嘆願して、日本政府が応じたわけです。日韓併合では、朝鮮人も日本人なのだからということで日本名を強制ではなく 変えたい人は申し出てくださいということで、受付に行列ができた。 このマツモトという朝鮮人も創始改名をした朝鮮人なのです。 だから、日本人名を名乗っていても、朝鮮人であることも多かったという背景が、よけいに慰安婦問題をややこしくさせている と思います。 水間正憲氏の資料の確かさと、歴史検証はたいへんすぐれていると思います。 戦後既得権益者である左翼は嘘をつきとうそうと、変に感情にうったえたり、屁理屈をいいますが、 歴史に関しては事実だけが大切だと思います。
by sahorikita
| 2015-09-22 15:10
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