さほりさんの自虐史観からの脱却

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2014年 06月 29日

日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。1937年ローマ法王ピウス11世

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ピウス11世(アッキレ・ラッティ) 1857~1939年。オーストリアの定刻のロンバル
ド=ヴェネスト王国デージオ生まれ。父は工場経営者。ミラノ大司教を経て教皇に選出。
長く外交分野で働いていたが、本来は学者で、諸言語に通じ、古代以来のさまざまな神
学的著作に精通していた。外交分野でも経験があったゆえか、社会主義者が様々な工
作を企てていること、支那事変(1937年)の際に、それが社会主義者の陰謀であること
を的確に見抜き、勇気を持っていちはやく世界中のカトリックに発信した。バチカンの絵
画館、ラジオ局、ローマ教皇庁立科学アカデミー等はすべて11世のもとで作られたと
いう。


日中戦争(支那事変)が始まった年1937年10月に、当時のローマ法王で平和主義者として知られるピウス11世(在位1922~39年)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかける声明をだした。

英文
“The action of Japanese troops was not to invade, but to protect China. They are fighting to get rid of communism there. As long as communism is in the world,all Catholic believers should cooperate with Japan without hesitation.”
日本語訳
「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」

 戦後マッカサーが靖国神社を解体しようとしたときに、カトリックのビッター神父、バーン神父が反対してくれたのはこのお陰だという。
 その声明を『東京朝日新聞』(夕刊、昭和12年10月16日および17日)は、「これこそ、我が国の対支那制作の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すできである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と歓迎の意を持って紹介した。
 日中戦争は8年続いたといわれるが、実際には戦闘は1年半余で終結、1940年には、中国の華北と華中の一部を支配下におき、その統治を親日の汪兆銘政権(南京政府)に委ねた。日本軍は、占領地域でのインフラ建設や、経済建設を行い、経済、財政、物価、治安の安定などに大きく貢献した。
 この法王ピウス11世が1939年に亡くなってしまったのが、残念でしかたがない。

当時、ローマ法王は日本の行動を支持していました。

中国での日本の行動をみていきましょう。

 もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
 日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
 


この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。
新聞は、「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
 と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
 けれども、そのピオス11世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。

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              中国人の子供や大人と共に正月の
              万歳をする日本兵たち(1938年)
             すでに日中戦争が始まっていた時である。
このように、自分達を守ってくれる日本に親近感をもつ中国人

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             中国人の子供を可愛がる日本兵(1938年)

一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らもまた、略奪で生計をたてていたのです。
中国人は、中国人からの謀略にふりまわされていました。

日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
 本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
 日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。日本政府はすでに一九三八年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
 それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。

中国人民の敵は、中国軍なのです。
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by sahorikita | 2014-06-29 16:16 | Comments(0)
2014年 06月 25日

「慰安婦は売春婦以外の何者でもなかった」1994年8月 アメリカ軍による20人の韓国人慰安婦聴取報告書

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上の資料は、
アメリカ国立公文書記録管理局に保管されている米軍
情報部心理作戦班米軍インド・ビルマ方面作戦部隊付
けによる『日本軍の捕虜尋問レポートNo.49』
(1994年10月1日発行)


全体を要約すると、
アメリカ軍による『捕虜尋問レポートNo.49』(1944年10月1日発行)には、同年8月10日に捕虜となった
20名の韓国人慰安婦、あるいは“プロの非戦闘従軍者”以上の物ではない。」との結論が記されている。
その他の内容は、
・募集は日本人の仲介者が行った(編注:当時は朝鮮人も日本人だった)。
・応募者の多くは無学で、幾人かは以前“売春”を生業としていた。
・“慰安サービス”の内容は明確にされず、病院の負傷者を訪問し包帯を巻き、一般的に軍人を楽しませる仕 事と思われた。
・多額のお金を誘因に、「家族の負債を返済する機会、楽な仕事、新天地シンガポールで新たな人生」という
 業者の虚偽表示により、多くの女性が応募し数百円の前払いを受け取った。
・慰安婦の収入は総売り上げ50~60%、平均的月収は750円。
・食事は十分で、軍医による定期健康診断もあり、慰安婦の健康状態は良好
・避妊具が支給され、接客拒否の権利もあった。
・週休1日制で、休日には客の将兵とデートや食事を楽しむ事もあった。
・町にショッピングに行くことが許され、そのお金も持っていた。
・借金を返済し、契約条件を満たしたものは、帰国できた。
・慰安婦は無教養で子供っぽく、自己中心的。日本人・白人の基準で見て綺麗とはいえない。
・客から求婚する例が多くあり、実際に結婚した例もある。






日本が終戦を向かえる前は、朝鮮人も日本人だった。
その当時は日本人として同じ待遇を受けていました。
そういう事実がなかったかのように、「日本軍に酷いことをされた!!」と、言うのは、
当時の状況判断で言うと、すごく違和感を感じます。

「当時は、朝鮮の人々も、日本人だったのです」
もう、植民地支配とかいって、搾取されたかのような認識になってしまう、
朝鮮の人々の脳みそって、理解に苦しみます。
韓国で「日本が統治していた時代の方が良かった」とお年よりが若者に発言したら、
タコ殴りされ死亡という記事を読んで、こわ~くなりました。
愛国無罪で、その若者が英雄扱いされていると知って、再度こわ~いと思いました。
国自体が健全から遠い、偏執狂の集まりに思えて・・・。


しばらく関わらない方がいいと思います。



それより、従軍慰安婦の火付け役は、朝日新聞です。
この新聞社が、世間に広く、裸の王様としてばかにされる日を願っています。







――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
こちらの英文は、全文です。


                         UNITED STATES
                  OFFICE OF WAR INFORMATION
                   Psychological Warfare Team
                        Attached to
                       U.S. Army Forces
                     India-Burma Theater
                          APO 689

                       Japanese Prisoner
                      of War Interrogation
                         Report No. 49.


Place interrogated: Ledo Stockade
Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944
Date of Report: October 1, 1944
By: T/3 Alex Yorichi




Prisoners: 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture: August 10, 1944
Date of Arrival: August 15, 1944
at Stockade
PREFACE

This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.

A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.

RECRUITING;

Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.

The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...

Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.

PERSONALITY;

The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.

LIVING AND WORKING CONDITIONS;

In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.

While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

PRIOR SYSTEM;

The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:

1. Soldiers


10 AM to 5 PM


1.50 yen


20 to 30 minutes

2. NCOs


5 PM to 9 PM


3.00 yen


30 to 40 minutes

3. Officers


9 PM to 12 PM


5.00 yen


30 to 40 minutes

These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.

SCHEDULES;

The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.

Sunday


18th Div. Hdqs. Staff

Monday


Cavalry

Tuesday


Engineers

Wednesday


Day off and weekly physical exam.

Thursday


Medics

Friday


Mountain artillery

Saturday


Transport

Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.

PAY AND LIVING CONDITIONS;

The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.

In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.

The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.

REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;

In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitué of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.

SOLDIERS REACTIONS;

The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."

The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".

MILITARY SITUATION;

"In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.

"Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."

Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.

It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.

RETREAT AND CAPTURE;

The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.

REQUESTS

None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."

They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.
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by sahorikita | 2014-06-25 15:30 | Comments(0)
2014年 06月 19日

日本はインド人に、独立のための千載一隅の機会を与えてくれました チャンドラ・ボース

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スパス・チャンドラ・ボース(Subhat Chandra Bose 1897年1月23日-1945年8月18日)インドの独立運動家。イギリス支配下のインドで弾圧されドイツに亡命、1943年5月16日に東條首相の招きで東京に到着。日本の支援でボースは10月21日にシンガポールで自由インド仮政府を設立、首班に就任した。これが現在のインド政府の誕生である。同年11月の大東亜会議には、オブザーバーとして参加。ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任した。インパール作戦には日本軍と共にインド国民軍を率いて戦うが、日本の敗戦から3日後、インド独立を見ることなく飛行機事故により亡くなった。

英植民地だったインドで、独立運動に身を投じていたチャンドラ・ボーズ氏は、日本の東條主相の招きによって来日。1943年5月16日、日比谷公会堂で演説しました。

英文の一部を紹介
This time,Japan declared war against Britain,long time enemy of India. japan has given us the best opportunity to be independent. We understand its significance and thank Japan from the bottom of our hearts. Once we miss this opportunity, we would not be able to have the same opportunity for another 100 years or more. Victory is in our hands and we firmly believe India will accomplish our goal of being independent.

Henry S.Stokes,Japan as "the Light of Hope in Asia" addressed on Dec.6,2012

この文の訳
 このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦しました。日本はインド人に、独立のための千載一隅の機会を与えてくれました。われわれはそのことを自覚し、心から日本に感謝しています。ひと度この機会を逃せば、今後100年以上にわたりこのような機会が訪れることはないでしょう。勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています。
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(ヘンリー・S・トークス 日本はアジアの希望の光 2012年12月6日講演)

ボースは今もインドで「ネタージ」(偉大な指導者)と呼ばれています。1943年10月、自由インド仮政府が樹立され、ボースは仮政府首班に推挙されました。自由インド仮政府は、日本とともに英米に対して宣戦布告しました。同年11月5日から東京で開かれた大東亜会議ではアジア諸国の代表が集まり、大東亜共同宣言が採択されました。インド代表を務めたボースを務めたボースは「この宣言をアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章としようではないか」と延べ、また日本が「全世界の有色民族の希望の光」だと述べました。


日本は戦争にまけましたが、欧米列強の植民地支配を終わらせたのです。
植民地にされていた有色人種に、独立への勇気を与え、次々アジアは独立をはたしました。

日本を嫌いな国は、中国、韓国、北朝鮮だけです。
中華思想は、中国が一番偉く、韓国は日本は弟のくせにという特殊な考えが、日本憎しへと肥大し、反日教育というプロパガンダを掲げています。北朝鮮は、拉致。拉致というと結構な言葉で、もっと簡単に言えば「人さらい」です。この3国は、「嘘をつくことは賢いことである」という文化なのではないでしょうか?
この3国以外のアジアと仲良くしていけたら・・と強く思います。

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by sahorikita | 2014-06-19 16:59 | Comments(0)
2014年 06月 15日

イギリス領だったビルマに多数の米軍機が配備され開戦を準備していた

GHQの押し付けた自虐史観から目覚めよう!

アメリカは日本が真珠湾攻撃をする6カ月前、イギリス領だったビルマに多数の米軍機が配備され開戦を仕掛ける準備をしていた

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元ニューヨークタイムズ東京支社・ヘンリー・S・ストークス氏は、論文『ペリー襲撃から真珠湾への道』(The Road from Perry' s Arrval to Pearl Harbor)の中で、日本開戦に関し、アメリカが隠喩してきた事実を語る。氏は1938年英国生まれ。61年オックスフォード大学修士課程終了後、64年来日、フィナンシャル・タイムズ、ザ・タイムズ、ニューヨーク・タイムズの各東京支局長を歴任。三島由紀夫との親交でも知られる。

イギリス人ヘンリー・S・ストークス氏による「100年に渡るアメリカの野望」

こちらが、原書のページ
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以下日本語訳

 私にはネーサン・クラークという従兄がいる。2011年5月に96歳で他界した。
 従兄はアメリカと、イギリスの国籍を持っていた。1941年初頭からインドに展開していたイギリス軍部隊に所属していた。階級は大尉だった。
 従兄はその年のなかばに、ビルマ(現ミャンマー)のラングーン飛行場に降りて、わが目を疑った。多数のアメリカ軍戦闘機と爆撃が、翼を重ねているのを、目の当たりにしたのだった。
 胴にはっきりと、アメリカの星マークが塗られていた。それまで、ビルマにこれほど多くのアメリカの軍用機が、翼を休めていたことはなかった。
 日本が真珠湾攻撃をする、6カ月前のことだった。従兄はこの光景を見て、アメリカが日本に対して、戦争を仕掛ける準備をしていることを、直感した。衝撃を受けた。
 職業軍人だったから、その意味を即座に理解できた。目にしたものは、戦争が始まろうとしていた以外の何も、意味しなかった。

 従兄はアメリカのルーズベルト大統領が、アメリカ国民を欺いていたことに、義憤に駆られた。従兄がこの話をしてくれた時にわたしは20代なかばだった。私は息を呑んだ。ビルマはイギリスの植民地だった。

-中略-
従兄はアメリカが隠喩してきた史実を、話してくれたのだった。私に71年前の12月8日(日本自観)に太平洋を舞台にして始まった戦争が、その前から準備されて、今日の世界へ導いたという問いかけを投げかけたのだった。

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↑詳しくは、こちらの本をお読み下さい。
 イギリス人である、ヘンリー・ストークス氏は、日米戦の原因はペリーの日本来襲の必然的な結果であることを、本論文で実証している。今や世界の良心的な知識人が、日米戦、そして大東亜戦争が決して日本の自己中心的な侵略主義によっておこされたものではないことを発言しつつある。これからそうした論を順次発表していく予定であるが、まずはこのストークス氏の論を、真正面から読んでいただきくことを願うものである。


日本語原文を今すぐ読みたい方はこちら↓
 http://hassin.org/01/wp-content/uploads/The-Road-from_J.pdf です。

資料「史実を世界に発信する会」より

戦後の歴史教育は、洗脳でしかなかったのです。
アメリカは、第二次世界大戦で、覇者を徹底的目指す野心を狙っていました。
戦後は、日本が二度と立ち上がれないように、GHQによって歴史を奪い、祖国を愛せないように日本人を改良しました。GHQに迎合して多大な金と地位を得た、戦後文化人に誇りはありません。

有名な人物としては、大江健三郎だ。
中国の核や核実験の様子を感動的と語り、日本の核はいらないという二枚舌。
憲法9条を、中国にもっていけといいたい。中国は9条はお・こ・と・わ・り!!に決まっている。

歴史的に大きく見ると、日本ほど温厚な国はありません。
中国大陸に進出したといわれるが、搾取したり、奴隷にしたりということは全くない。
朝鮮半島にも国費を注ぎ、朝鮮の近代化の基礎を残していきました。
(他国は破壊してから撤退するのが常識です。

朝日新聞の歴史認識はクソ!!であります。
毎日、中国共産党のことばかり考えている朝日新聞は潰れろ!と思っております。


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by sahorikita | 2014-06-15 15:38 | Comments(0)
2014年 06月 11日

マッカサー連合軍事長官の甥ダグラス・マッカサー2世が1960年4月27日、在日アメリカ大使館に送った電文

在日本米国大使館へ送られた竹島関連の電文
1960年4月27日午後3時付けの電文(Telegrm)。機密扱いが解かれるまでは複製を禁じると明記され、国務省3470優先文書(SECSTATE 3470 PRIORITY)と記載され4枚に亘る。この電報の要点は以下の通り。-竹島は日本の領土であり、韓国が違法占拠していること、韓国は日本の漁船を公海上で拿捕し、日本人の漁師を人質として取り人質外交を行っている。李承晩とはまともな外交交渉が出来ないため、次期政権がまともな民主主義政権であることに期待し、日本と韓国の紛争を機会を一刻も掴むべきである。
以下、その内容


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 電文の日本語対訳紹介 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
電報一枚目
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SECSTATE 3470 PRIORITY
国務省3470 優先文書
Rptd info: Amembassy SEOUL 351
Reported information : ソウル大使館職員351
For Assistant Secretary Parsons from MacArthur.
パーソンズ次官補へマッカーサーより

Seoul for Ambassador McConaughy.
マッコーニー・ソウル大使


Now that we have prospect of new and democratic regime in Korea I strongly recommend that as soon as possible we seize opportunity to try to bring about durable solution to Korea - Japandispute.
我々には韓国に新しく民主主義体制の見込みがある今、できるだけ早く、我々が韓国と日本の紛争に恒久的解決をもたらそうとする機会をつかむよう、私は強く進言する。

As long as Rhee held power there seemed little chance of any solution but now we have entirely new situation which could lead to liquidation of Korea - Japan controversy.
李承晩が権力の座に居る限りは、解決の糸口がほとんど無いように見えたが、現在、我々には韓国と日本の論争の精算につながる全く新しい状況がある。

Implications of Korea-Japan are not just bilateral between government of Japan and Korea but deeply and directly involve US and our inescapable responsibilities in Northeast Asia.
韓国と日本の関係は単に日本と韓国と政府と言うよな側面ばかりでは無くアメリカと我々の北東アジアにおける責任に深く直接的に関わっている。

As practical matter if reasonable solution is to be found it will be produced only by our good offices and working closely with both Korea and Government of Japan.
実際問題として、合理的な解決策が見いだせるとすれば、韓国、日本政府と我々が緊密に協調する事が不可欠である。

It is of utmost importance that we identify and be prepared to move swiftly for solution those specific Korea-government of Japan problems which prevent progress toward basic settlement this festering dispute.
最大限に重要な事は、明確な韓国政府の日本問題の早期解決のために基本的な和解の進展を妨げ、悩ましている鬱積した問題を特定し素早く物事が運ぶように準備する事である。

電報2枚目
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We do not know what response Communists may make to new Korea regime and it is vital we try to put Korea-Government of Japan house in order as soon as possible.
我々は共産主義者達が新しい韓国の体制にどんな反応を示すかわからないが、我々ができるだけ早く韓国と日本政府を適切な状態に整えようとすることは不可欠である。

While Rhee regime violated most basic tenets of democracy in authoritarian police rule imposed on Korean people, it has also in past done violence to most fundamental principles of international conduct and morality by committing acts of piracy on high seas around Rhee Line and then imprisoning and holding as political hostage Japanese fishermen and by seizing and holding non-Korean territory by force.
李承晩政権が韓国人に対し権威主義的な警察支配において民主主義の基本心情を冒涜し、国際的な品行や道徳等の基本原理を犯し李承晩ライン周辺の韓国領域外の公海上でも実力行使で海賊行為を働き日本人の漁民達を政治的人質として投獄し韓国領域外の領域を力ずくでつかんでいた。

The uncivilized practice of hostage diplomacy is one of our serious charge against Communist China and if continued by Korea it will be a great liability to a new democratic Korea regime
野蛮な人質外交の実行は共産主義シナに対する我々の由々しき非難の1 つで、そして、韓国によって継続されるならば、それは新しい韓国の民主主義体制の大きな責任となり得る。

I therefore recommend strongly that as soon as new regime is in control in Korea (whether or notit be of interim character) we use all our influence to persuade it (1) to release and return toJapan all repeat all Japanese fishermen hostage (including those who have not completed theirsentences) who have suffered so cruelly from Rhee's uncivilized and oppressive acts and (2) to cease practice of seizing Japanese fishing vessels on high seas.
韓国で新しい体制が整い次第、我々の影響力を行使して、これらのことを説得することを進言する。(それが暫定的な性格であろうが)(1)李承晩の残酷で野蛮な弾圧行為を受け苦しんだ全の日本人全員の人質を解放し(まだ刑が確定していない人質も含む)(2)日本の漁船を公海上で拿捕する習慣をやめさせる事。

電報3枚目
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This would not only rid new Korea regime of liability of practicing hostage diplomacy but also more than anything else would lay foundation in Japan for really fruitful negotiations.
これは韓国の新しい体制から人質外交をやめさせるだけではなく本当の意味での実りのある日本との外交関係の基盤作りが何よりも重要である。

At same time I would be prepared to press Kishi and government of Japan most strongly that in return for repatriation of all fishermen, Japanese would exercise self-restraint in their fishing operations in Korean Straits until reasonable opportunity had been given for negotiation of mutually agreed Korea - Japan fishing conservation agreement.
同時に私は全ての漁民の本国送還と引き替えに岸総理と日本国政府に対し韓国と日本の間で機会を得て理にかなった交渉が行われ、お互いに合意を得て漁業協定が結ばれるまでの間、韓国の海峡での漁業を自粛するように強く要請する用意がある。

In addition to seizing Japanese boats in high seas and practicing hostage diplomacy, Rhee regime also seized by force and is holding illegally Takeshima Island which as always been considered as Japanese territory.
公海上での日本の漁船の拿捕と人質外交の上に李承晩体制下では、常に日本の領土とされてきている竹島を力ずくで占拠している。

This is very serious and permanent irritant in Japan-Korea relations and there can be no over-all Korea-Japan settlement until this island is returned to Japan.
これは日韓関係の非常に重要で永久の悩みの種で、この島が日本に返還されるまで、日韓全体の和平が決着することが無い。

Therefore we should also press new Korea regime to return Takeshima to Japan.
それ故、我々は、新しい韓国の政権に竹島を日本に返還するよう圧力をかけなければならない。

If it is unwilling to do so pending satisfactory conclusion of over-call Korea-Japan negotiations, new regime should at least signify a willingness to withdraw from as part of mutually satisfactory settlement of other outstanding issues between two countries.
日韓包括交渉の満足な終結をさせる気がないならば、新しい体制は少なくとも未解決の他 の問題を双方満足な形で解決する意欲の表明をしなければならない。

電報4枚目
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While we should press strongly for return of Takeshima to Japan, if by any chance new regime were unwilling to do so we should, as very minimum, insist that they agree to submit matter to International Court of Justice for arbitration.
我々が竹島を日本に返還するように強く圧力をかけている間、万が一、新しい体制がそう する気が無ければ、最低限、我々はこの件を国際司法裁判所に付託し仲裁を求める事に合意するよう主張すべきである。

Finally, we should inform new regime very clearly that it must be prepared to adjust its relations with Japan on terms of reciprocity, in such matters as diplomatic missions, visits by businessmen and journalists, commercial trade.
最後に、我々は新しい体制に対して、外交使節団、ビジネスマンとジャーナリストによる 訪問、商業的な取引のような事において、相互主義の条件に関して日本との関係を調節する準備をしなければならない事を、特に明らかに知らせなければならない。

Japanese have suffered Rhee's occupation-minded approach for eight years and will be unwilling to accept such indefensible treatment from his successor.
日本人は8 年間、李承晩の占領主義の手法で苦しんで、彼の後継者からそのような擁護できない扱いを受け入れる気は無い。

In its own interests, new regime should start with conformity with normal International standards of conduct, and could most usefully begin (in terms of Japanese and other free world opinion) by permitting Japanese diplomatic mission to enter and function in Korea on same terms Korea Embassy operates here.
それ自身の利益において、新しい体制は通常の国際行為規範に準拠した行いから始めなければならず、最も有効な始動は、(日本や他の自由主義の世界世論に照らし)韓国大使館がここ(日本)で運営するのと同じ条件で、日本外交使節団を受け入れ韓国で機能することを承諾させる事から始める事である。

If we now move swiftly with new Korea regime which should generally be receptive to our views because of our helpfulness, we may have initial opportunity, which may never reoccur, to influence its position on Japan-Korea problem.
もし我々が今、迅速に動くならば、韓国の新体制は我々の有益性を鑑み、一般的に見れば我々の見解を受け入れるであろうから、我々には初期の時点にて、日韓問題に影響を及ぼす事ができる立場、二度と無いであろう好機があるであろう。

Japanese would certainly welcome warmly and reciprocate fully, measures indicating new Korea regime willing take "new look" at Japan.
日本は間違いなく新しい韓国の体制の日本への新しい見方を暖かく迎え全面的にそれに報いるであろう。


D MacAuthur:mek POL:WHGleysteem DCMWmLeonhart
ダグラス・マッカーサー
Reproduction from this copy is prohibited unless "UNCLASSIFIED"
機密扱いが解かれるまでは複製を禁じる。
Confidential
親展
classification Official file copy
機密種別公式文書


この電文を読んで、次期政権がまともになることがなかったということだと認識。
李承晩という大統領は、自国民も虐殺したのを日本のせいにして、勝手に李承晩ラインを引き、日本人の漁師にリンチ。なにより、なんでも人のせいにする、嘘は付く。
韓国の歴史では、日本と韓国が戦争をしたと教えている。ファンタジー歴史を幼少から刷り込んでいます。
今や、アメリカに従軍慰安婦像をあちこちに建て、その像の文面に、アジアの女性を20万人性奴隷にしたと嘘を付き、ベトナム人女性にも日本が強姦したと書く厚かましさ。
そして、ライタイハンの事まで、日本人になすりつけようという魂胆。うそ、うそ、うそで塗り固めた国が韓国です。韓国がまともな民主主義になることがあるのだろうか?嘘を付くのはあたりまえの国とは、やってられない。



情報の入手先
テキサス親父日本事務局
http://staff.texas-daddy.com/
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by sahorikita | 2014-06-11 19:13 | Comments(0)
2014年 06月 08日

日米開戦の責任はルーズベルトにある

米国第 31 代大統領ハーバード・フーヴァー回想録
『Freedom Betrayed』より


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2011年11月発行、日本語訳未発売

ページ抜粋
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日本語訳

 「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、(1946年)5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、そして、6日の朝に1時間、二人だけで話しをした。(中略)
 私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、また、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかりでなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかったと述べた」

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フーバー大統領(写真)

 これまでもチャーチル・A・ビアード博士らが日米開戦の責任はルーズベルトにあると主張してきたが、フーバー大統領(1929-1933在任)の口から、それらが語られたことは決定的な意味を持つ。

こちらは、ルーズベルト大統領が当時、日本攻撃計画にOKのサインを7月23日にしている。
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詳しく説明すると

陸海軍合同委員会でまとめた日本本土被爆計画JB355が大統領に提出されたのは、真珠湾攻撃の5カ月前の7月18日「OK-ただし、軍事施設団方式を採るか、アタッシェ方式を採るかについては再検討されたし。FDR」と書かれている。


もう、この時点で日本の徹底攻撃の計画も立てられていたのです。ルーズベルトは、「カモン・ジャップ」であり、日本が音をあげるまで追い詰め、日本から手を出さそうと誘っていたのです。

巷で、「日本の戦争をやめさす為に、アメリカは原爆を落とした。」という方がいますが、
計画されていた事を、したのです。

淡々と事実を知り、学んでいくことが大切だと思います。
GHQから押し付けられた歴史から、脱却していくことは、日本のアイデンティティを取り戻すことと思い、大いに正しい歴史を改めて学ぶ時だと痛感します。
 今、現在の方がはるかに研究が進み、良書も多くみかけることができます。
 そして、日本を築いてきた先人、祖先に感謝をするこの頃です。




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by sahorikita | 2014-06-08 19:46 | Comments(0)