<   2014年 08月 ( 2 )   > この月の画像一覧


2014年 08月 19日

靖国神社の大祭に出会い、それを見てはなはだ大きな感慨を催す-周恩来

f0350840_15153298.jpg

周恩来(1898年3月5日~1976年1月8日)浙江省招興生まれ。1917年、南開中学校卒業後、日本に留学したが、日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗。東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧・政学部、現・政治経済学部)に通学、2年間滞在した。帰国後の1920年、当時の愛国青年同様、祖国を救う道を探す希望に燃えフランスに留学、共産主義思想に傾倒。中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られると書記に就任。1949年、中華人民共和国が建国されて以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。1972年、中米、日中、国交正常化を成し遂げた。

f0350840_1516273.jpg

靖国神社の大祭に出会い、それを見てはなはだ大きな感慨を催す-周恩来の日記より


同年(1818年)5月1日(水曜日)気候・雨のち晴れ。
【治事】
「朝、読書。昼飯のあと、半時間、昼寝。夜、九段をぶらぶらしていると、靖国神社の大祭に出会い、それを見てはなはだ大きな感慨を催す」

中国は、日清戦争(1894~95年)の敗北や義和団の乱(1990年)により近代国家の実態に衝撃を受け、日本を通して近代化を進める道を選択した。中国が送り出した留学生の数は増加の一途を辿り、特に日露戦争(1903~04年の)に日本が勝利した事が留学熱を高めた。1905年には8000余人、1906年には約1万2千人以上が日本に留学した。周恩来も1917年から2年間、日本に留学。その日本滞在中に靖国神社の大祭を感激した様子が上記の日記である。

周恩来は、その前日にも大祭を見に出かけているが、雨に降られたので止め、この日再び出かけている。

ジャーナリストの水間憲政氏は、「中国人留学生用の留学案内書には、『日本遊学指南』(章宗祥著)などがあった。その中の東京の遊園地』には、<靖国神社「麹町九段坂の上にある。国家のために忠死した人を祀ってある>」と記載されている。
周恩来は、青年会などで様々な留学案内書を手にして、「大祭」の行事がいかなるものか認識していて感動したのであろう」と書いている。

また、6月2日の日記には、靖国神社の『遊就館』を見に行ったことも記されている。中華人民共和国の「建国の母」といわれる周恩来元首相が、日清、日露戦争の戦死者を祀っていることを当然知った上で、靖国神社の「大祭」に感激を覚えたことは、重要な点である。

中国は、いつから日本に内政干渉するようになったのか?
戦後ずいぶんたってから急に文句をいうようになったのです。1985年に突如言い始めます。韓国に至っては2001年~。
以下が年表。


■福田赳夫政権
1977年04月 沈黙
1978年04月 沈黙
1978年08月 沈黙
1978年1 0月=A級戦犯合祀される=
1978年1 0月 沈黙
■大平正芳政権
1979年04月=A級戦犯合祀判明=
1979年1 0月 沈黙
1980年04月 沈黙
■中曽根康弘政権
1983年04月 沈黙
1983年08月 沈黙
1983年1 0月 沈黙
1984年10月 沈黙
1984年04月 沈黙
1984年08月 沈黙
1984年10月 沈黙
1985年04月 沈黙
1985年08月=朝日新聞が参拝を批判 ←※ココから始まる
1985年08月=中国の新華社通信が参拝を批判
【天安門事件 (1989年)】 ←※これも重要
■橋本竜太郎政権
1996年 中国抗議!
■小泉純一郎政権
2001年 中国・韓国抗議!(初の韓国抗議)
2002年03月 韓国駐在武官参拝 ←※注目
2002年04月 中国・韓国抗議!
2003年 中国・韓国抗議!
2004年01月 中国・韓国抗議!
2005年10月 中国・韓国抗議!

朝日新聞が焚きつけたことは、すぐ分かると思います。あの新聞の事です。
何故、中国政府もその話に乗ったのか?はっきり言って、日本人を不愉快にして、関係が悪くなることを言い続けるようになったのか?この問題だけでも、日本人の中国嫌いを加速しているようなもの。
周恩来氏はうまく日中友好を結び(日本からの金が目的とは言え・・・)したのに比べ、日中友好の破壊する行為するようになったのは、日本軍を知らない中共の世代の政治家達だけになった結果と感じています。周恩来は、日本軍の脅威の強さや、実態を知っているだけに、そんな発言を言うことは考えもしなかったと思う。毛沢東ですら、蒋介石を追い払ってくれて、感謝するということを述べている。

何でも言えばいい、すなわち、歴史認識が低下している状態、自分達が作った嘘の歴史をのみになり、アホになったという事だと思うのです。外交を誤ったのは中国だと思います。
中華人民共和国は、近代化したふりをしているが、今でも王朝と変わらない国では?と認識しつつあります。一党独裁、権力闘争、邪魔者は殺せ、賄賂の横行、自国民大量虐殺(ウイグル人・チベット人の虐殺)言論の自由なし、中世と同じではないか・・・・。

朝日新聞のおかげで、日中友好がうまくいかなくなって有難い気持ちが湧くヮ。
人の国の墓参りにケチつけるって、どういう神経って普通だったら思うものね。
[PR]

by sahorikita | 2014-08-19 17:01 | Comments(0)
2014年 08月 07日

日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へ駆り立て、アメリカを太平洋戦争に参加させた男-スティムソン

f0350840_14181223.jpg

ヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Lewis Stimson)1967年9月21日~1950年 10月20日は、陸軍長官、フィリピン総督および国務長官を務めたアメリカの政治家。セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、7人のアメリカ大統領に仕えた。第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者であり、日系人の強制収容所の推進、広島と長崎への原爆をした。原爆投下に対する批判を抑えるための「原爆神話」(原爆投下によって終戦戦が早まり犠牲が減った)を生み出した。日米の戦争を巡る歴史の鍵となる人物の一人。

スティムソンの経歴と人物像

スティムソンは第1次世界大戦時(一九一一年)に、タフト大統領によって陸軍長官に任命された。
また、一九一七年から一九二二年まで軍隊に入り准将。一九二七年、フィリピン総督になった。一九二九年、ハーバード・フーヴァー大統領は彼を国務長官にした。

スティムソン国務長官は1931年1月に「スティムソン・ドクトリン」を発表した。その内容は、中国の主権をうたうもので、日本の中国侵略(侵略ではなく進出)を非難するものであった。 

フーヴァーに替わってルーズヴェルトが大統領になる就任式まであとニヵ月とせまった1933年1月9日、ルーズヴェルトはスティムソンをハイドパークの自宅に迎え、2人だけで5時間に及ぶ会談を持った。この会談から一週間後、ルーズヴェルト大統領は「スティムソン・ドクトリン」への支持を表明した。これは日本を敗北へ導く基本となったものである。スティムソン・ドクトリンをルーズヴェルトは実行し続けるように運命づけられていたのである。

次いで石油と屑鉄の対日禁輸となっていくのである。(日本でいうABCD包囲網)

ルーズヴェルド大統領は自分の名が歴史のなかで汚れていくのを自覚するようになった。そこで、日本と妥協しようと試みるのである。日本の真珠湾攻撃の半月前の1941年11月下旬、日本側の最終提案を一部修正のうえで受け入れようとした。陸軍参謀総長のマーシャルも海軍作戦部長のストークも、戦争の準備ができていないとしてルーズヴェルトの政策に賛成した。

スティムソンはこのことを知ると、マーシャルとストークを威嚇した。
 
「ノーだ!なんといってもノーだ」

ロシアのスパイでもあったホワイト[ハリー・デクスター~、1892-1948]が"最後通牒"を作成し、ハル国務長官に一方的に押しつけた。(日本では、ハル・ノート)

「ジャップスに真珠湾をやらせろ!」

その日、大統領から「われわれは、おそらく次の月曜日に攻撃を受けるであろう」という警告があった。 ・・・問題は、こちらの危険をできるだけ少なくして相手から先に攻撃の矢を射かけさせるように、どうやって仕向けるかだ。 (これは、有名な話)

11月28日、スティムソンはルーズヴェルトと会った。スティムソンはルーズヴェルトに言った。

「われわれには三つの選択があると思う。第一は何もしないこと。第二はどうなればこちらが戦うかという線を明記した最後通告のようなものをもう一度出すこと。第三は、直ちに開戦する」

スティムソンは「私は第三の方法を取りたい」と言った。ルーズヴェルトは黙っていた。スティムソンに逆らう力の全くない大統領であった。この会談の以降、真珠湾が攻撃されるまでルーズヴェルトは沈黙を守った。もし口を開けば、ジョン・F・ケネディと同じ運命が待っていたであろう。

その日の正午、スティムソン、ノックス、ハル、スターク、マーシャルの五首脳が会談を開いた。スティムソンは即時開戦論をぶった。残りの四人は「ある地点ないしは特定の線を越えたら(真珠湾のある地点まできたら)開戦をするという警告を日本政府に伝えよう」と言った。ステイムソンは「黙れ!」と怒嚇した。日本の艦隊はすでに真珠湾めざして発進していた。

かくして日本は艦隊を真珠湾に進め、ハワイを急襲するのであった。
チャーチルとルーズヴェルトの秘密会談で原爆製造のスケジュールはすべて決定していたのである。

それは、真珠湾攻撃の直前に、スティムソンを中心とするメンバー(スティムソン以外はほとんどはすべて小物)が原爆製造のための準備に入ったということである。

「スティムソン・ドクトリン」の最終目標が明確にされたときでもある。その主眼とすることは一つの言葉に収敏される。

「ジャップスをたたきのめせ!」 

真珠湾攻撃と原爆投下は一つの悲しきセットとなっている。

スティムソン陸軍長官のもとにブッシュらの科学行政官が集められたのは真珠湾攻撃の前日であった。 「原爆を全力で開発せよ」との命令を科学者を前にしてスティムソンが語った。それは原爆を全力で開発するという目標を、アメリカ国家が正式に掲げた日となった。第一部門、すなわち科学者に政府が資金を提供した初会合の日であった。

アメリカは日本の無線を全て傍受し、ハワイ攻撃の時間と分まで計算しつくしていた。

スティムソンがマーシャルに「ハワイの司令部に日本の攻撃を知らせるな」と念を押した日でもあった。

初会合を開いた翌月+二月七日(日本時間では八日)の午前七時、日本海軍の航空隊は真珠湾のアメリカ軍に奇襲をかけた。ここに太平洋戦争が始まった。それは同時に、「ジャップスをたたきのめせ!」の大号令を叫ぶスティムソンの勝利の瞬間でもあった。真珠湾攻撃と原爆投下は一本の線上にあることを理解すべきである。

■鬼塚英昭 原爆の秘密[国外篇] 第四章 地獄の魔王が姿を見せたアラモゴード より抜粋
 http://satehate.exblog.jp/9443843/

駐:スティムドクトリンとは
  詳しくうと眠くなるので簡単に要約。日本の中国大陸の進出に脅威を感じ、中国への残虐行為は許せないという立場から、日本人は鬼畜な猿!ジャップ!という風潮を強めていった考え。アメリカでは、日本人だけが強制収容所に入れられた点は、ここにあります。

このスティムソンという方は、頑なに日本が憎いに偏執していき、大勢の科学者の反対にも、反対意見も振り切り、日本に原爆を落としました。

[PR]

by sahorikita | 2014-08-07 14:40 | Comments(0)