さほりさんの自虐史観からの脱却

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2014年 09月 25日

厄介な中国の真実―日本軍に無実の罪を着せる中共

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↑日韓併合の頃の中国は、ロシア、イギリス、フランスの植民地化が進み、清国はどんどん侵食されていました。

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↑侵食される前の清国はこのように広大でした。

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↑中華民国となった時は、清の生き残りの溥儀を傀儡国家満州国を日本は建国します。

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↑中国の民族分布は、大まかにみていくとこのようになっています。
清国は、漢人の国ではなく、ロシアの北方からやってきた満州人が建てた国で、中国の漢字ではなく、重要な事は、満州語(チベットの文字に似ている)でやりとりが行われていました。
この時点で、満州は今現在の中華人民共和国とは、全く別のもという認識をしなければなりません。

中華民国は日本では1つの国という認識ですが、実際は群雄割拠状態で、内乱状態です。この頃、満州人達は、満州人だというだけで、迫害されることになり、命を守るため言葉も捨て、文化も捨て、同化していきました。今現在、日本に来て、満州人のアイデンティティを知りたいという学生がいます。


日本軍に無実の罪を着せる中国共産党
 やっと本題にはいります。

 中国人を最も多く虐殺した国家は、中国を除けばロシアである。ロシア軍が満州侵略した際には数百万の満州人と漢民族が虐殺されたと言われる。
 ところが習金平は過去の歴史について日本は非難してもロシアとは友好関係を演出することにしか頭にない。中国の近現代史の教科書はロシア軍が満州で中国人を虐殺している写真を掲載し、そこに「日本軍が旅順に侵攻して中国人を虐殺した」と説明をつけている。
これ1つとっても中国人が真実の歴史を学ぶのが難しいことがわかる。前出の教科書には、日本軍は旅順で中国人を1ヵ所に集めて銃や刀で惨殺したのでまともな死体は1つもなく、中国人の受難者は2万人以上だとしている。全く事実無根の捏造である。
 
 2014年5月21日の『阿波羅新聞』では、事実を報道するために同写真を「ロシアによる東北での狂気の大虐殺」として、日本軍の行為と改竄している教科書を痛烈に批判している。

 中国共産党は、尖閣諸島略奪のため、「尖閣諸島は中国領土」と書かれていない教科書を回収した過去がある。中国共産党の作った教科書にも尖閣諸島が日本の領土と書いてあるものが多数あったのだが、それは全て焼却された。中国共産党の歴史は日常的に改竄されている。

都合が悪くなれば、ロシアに関する歴史も新たな改竄が加えられるだろう。

毛沢東は、日本軍のおかげで中国共産党が勝てたと日本へお礼を言っています。
蒋介石は、南京大虐殺にはいっさい言及していません。
当時の日本軍を知っていた頃の中共は、日本軍をまのあたりに知っている頃の中共は、敵ではあるが、お互い戦地を駆け巡った軍として、敬意をはらっているのです。そんな事は知らない中国共産党の次の世代は、歴史なんかどうでもいいし、日本から金を巻き上げる為の道具としての歴史をプロパガンダに使っています。

そんな恫喝は、無視しましょう。そして、そのからくりを多くの人が知って欲しいと願います。

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こうやって着々と捏造の展示を作っています。

(ふと、中国の歴史を詳しく知って行くうちに、多くの誤解に気が付いた主婦です)


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by sahorikita | 2014-09-25 15:25 | Comments(0)
2014年 09月 09日

インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、日本海海戦の有壮な話に、沸き立っていました。

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スパス・チャンドラ・ボース(Subhat Chandra Bose 1897年1月23日-1945年8月18日)インドの独立運動家。イギリス支配下のインドで弾圧されドイツに亡命、1943年5月16日に東條首相の招きで東京に到着。日本の支援でボースは10月21日にシンガポールで自由インド仮政府を設立、首班に就任した。これが現在のインド政府の誕生である。同年11月の大東亜会議には、オブザーバーとして参加。ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任した。インパール作戦には日本軍と共にインド国民軍を率いて戦うが、日本の敗戦から3日後、インド独立を見ることなく飛行機事故により亡くなった。

イギリスの植民地だったインドで、独立運動に身を投じていたチャンドラー・ボーズ氏。弾圧を逃れ、ナチス政権下のドイツに亡命してインド旅団(2,000人)を結成しました。1941年、その反英ラジオを聞いて支援を決めたのが東條英機首相でした。インド洋でドイツの潜水艦Uボートから日本の潜水艦に乗り換え、1943年5月16日、来日したボースは日比谷公会堂で演説しこう述べました。

以下英文
When I started going to elementary school, a country of Asian rece fought against one of the largest white empire, Russia. This Asian country defeated Russia completey. And this country was Japan. When this news reached all across India, a wave of excitement covered the entire land. At every corner of my country, people enthusiastically talked about the Battle of Port Arthur, the Battle of Mukden, and the thrilling story of the Battle of Tsushima. Indian children honestry adored Admiral Togo and General Nogi. Parents competed to buy the pictures of Admiral Togo and General Nogi invain. Instead, they bought something Japanese from the market and ornamented their houses with Japanese things. Japan was the "Light of Hope"for Asia.

Henry S. Stokes, Jaoan as "the Light of Hope in Asia" addressed on Dec. 6,2012

日本語訳

 私が小学校に通い始めた頃に、アジア人種の国が白人の大帝国であるロシアと戦いました。このアジアの国はロシアを完敗させました。そしてその国こそが、日本だったのです。このニュースがインド全土に伝わると興奮の波がインド全土を覆いました。インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、日本海海戦の勇壮な話に、沸き立っていました。インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、家に飾りました。日本はアジアの希望の光でした。
 (ヘンリー・S・ストークス 日本はアジアの希望の光 2012年12月6日講演)

■チャンドラー・ボーズの活躍の話も付け足します。
 ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝として即位してから、66年目に当たる1943年10月に、ボースを首班とした自由インド仮政府が樹立される。
 ボースは所信表明で、「デリーへ(チャロ・デリー)!」という、祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始を、宣言した。
 INA将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指して、「チャロ、チャロ、デリー」と雄叫びをあげ、そう大書された横断幕を揚げて、進軍した。「チャロ・デリー」は軍歌ともなって、今日でも多くのインド国民によって愛唱されている。ボースは将兵を「われらの国旗を、デリーのレッド・フォートに揚げよ」と、激励した。
 自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して、宣戦布告した。
 この年11月5日から6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催された。
 東郷首相、満州帝国の張景恵(ちょうけいえい)国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのプビン首相代理であるワンワイタヤコン殿下らの首相が、一堂に会した。ボースはインド代表として、参加した。
 これは、人類の長い歴史において、有色人種によって行われた、最初のサミットとなった。人類に人種平等をもたらした、出発点となった。まさに、日本史における輝かしい一瞬だった。
 ボースは、大東亜共同宣言が満場一致で採択された後に演説し、この宣言がアジア諸民族のみならず、「全世界に渡る被抑圧民族の憲章となることを願う」と、訴えた。
 ボースは1944年11月に、再度来日したが、日本を取り巻く戦況は一変していた。この年3月から、日本軍がINAとともに、インド国内に攻め込んだインパール作戦が展開されたが、食糧弾薬の補給が続かず、6月には占領したコヒマを放棄して、総崩れになって退却した。
 7月にサイパン島が、アメリカに奪われた。日本は9月にぺリュリュー島から始まって、グアム島、テニアン島といった島々を失っていた。
 そうしたなかで、ボーズの講演会が、再度日比谷公会堂で行われた。
 ボースは、雄弁だった。「アジアに住むインド人は、人的、物的資源を総動員して、日本と生死を共にする」と、訴えた。
 日本なしに、アジアの開放はなかった。1945年に日本は降伏したが、ボーズは敗れなかった。
 INAのインパール作戦からの残存兵力2600人と、マレー半島で訓練を受けていた新編師団が、バンコクに移動していた。
 ボースはこれらの兵力を中国北部に移動させて、ソ連の支援を取り付け、中央アジアからインドへ、デリーを目指して進撃する計画を立てた。
 ボーズはサイゴンを飛び立ち、8月18日に台北に到着した。日本軍輸送機が大連へ向けて離陸した直後に、エンジン故障で墜落して、ボーズは重症を負った。ラーマン副官に「私は生涯を祖国独立に捧げて、いま死ぬ。独立の戦いを続けるよう!」と遺言して、反英闘争に捧げた生涯を閉じた。

その後、イギリスはINA将校たちを、イギリス王国に銃を向けた反逆罪で裁こうとした。1945年11月5日に裁判が始まる。すると、不法な裁判を即時停止する運動が、全インドに広まった。さらに、イギリス人の引き揚げを要求する運動が、自然発生的に起きる。ボースの出身地のカルカッタでは、10万人のデモが起こる。
 その動きはとどまることを知らず、民衆に続いて、インド将兵と続き、1万5000人の将兵が愛国心に駆られて立ち上がった。
 1947年8月15日に、インドは200年に渡ったイギリスの植民地支配に終止符が打たれて、ついに独立を達成することになる。
(なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 加藤英明著、ヘンリー・S・ストークス著 祥伝社 より抜粋)

インドの独立運動を支えた日本。インパール作戦は犬死ではありませんでした。こうやって、1つの国が独立する流れを作り、強く意志を貫いたチャンドラー・ボーズ。欧米のアジアの植民地支配を終わらせる原動力になったと思うと感動的でもあります。
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by sahorikita | 2014-09-09 23:41 | Comments(0)
2014年 09月 02日

ルーズベルト大統領は、どうして日本はいまだにわれわれを攻撃しないのであろうか、と口にしている。

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ハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish 1888-1991)は、アメリカ、ニューヨーク生まれ。NY州議会員を経て、1920年~45年、米国下院議員(共和党)を務める。

フィッシュ元米国下院議員は真珠湾攻撃の際、日本を卑怯な国と非難し対日開戦を支持した。しかし、後にこの戦争がF・ルーズベルト大統領の陰謀であることを明らかとした。当時、外交委員であった氏にも「ハル・ノート」の存在は全く知らされておらず、あんなものを通告されたら、日本は戦争をするしかないだろうとメモを残している。また「ハル・ノート」の作者がソ連のスパイ「ハリー・デクスター・ホワイト」だと述べている。

以下英文
The war cabinet included, in addition to FDR, Secretary of State Hull, Secretary of War Stimson, Secretary of the Navy Knox, General George Marshall, and Admiral Harold Stark, all of them pro-war. The topic of their November 25th meeting was how to force, compel, goad, or trick Japan into war. The result was the ultimatum to Japan, not only to get out of Vietnam and China, but to break off relations with Germany. There is no question that the Japanes understood the intent of the demand. Twe days later the President wondered aloud to Henry Stimson why the Japanese hadn't yet attacked us. He considered senging an ever stronger ultimatum.

Hamilton Fish, Tragic Deceptin:FDR & America's Involvement in World War Ⅱ(U.S.A,:Devinadair, Publishers,1983),p.4

日本語訳

戦争内閣は、フランクリン・D・ルーズベルトの他に、次のメンバーを含んでいた。ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル将軍、ハロルド・スターク提督―この全ては、戦争賛成派である。彼らの11月25日の会合の議題は、いかにして日本に戦争を押しつけ、戦争に導き、あるいは騙して戦争に陥れるか、であった。その結果として、日本に対する最後通牒により、ベトナム及び中国からの撤退のみならず、ドイツとの関係を絶つことまでも迫ったわけである。日本がこの要求が何を意味するかを理解したことは、疑うべくもない。その2日後、大統領は、スティムソンに対して、どうして日本はいまだにわれわれを攻撃しないのであろうか、と口にしている。そして、更に強い最後通牒を送ることも検討している。

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「日米・開戦の悲劇」より抜粋
ポーランドの、緩慢な行動は、第二次世界大戦を発火させるスパークの役割を果たした。ルーズベルト大統領は、平和のための偉大な功績者となるチャンスがあったが、彼は、チェンバレン首相の要請を拒否し、事態の解決を遅れさせたので、第二次大戦の勃発を防ぐために何もすることができなかった。
 当時のルーズベルトの対ポーランド政策は、一九三〇年代、ポーランドの駐米大使であったイェルジー・ポトツキーの報告に詳しい。
 この報告は、ワルシャワで、ドイツ側に押収されたポーランドの外交文書の中から見つかり、後に、当時、南米に住んでいたポトツキーにより確認されたものである。
 以下の発言は、一九三九年一月十六日、ルーズベルトのヨーロッパにおける重要な代表であったウィリアム・ブリット駐仏大使が、パリに帰任する際に、ポトツキー大使と会談した時に行われたものである。


「英仏は、全体主義国家と、いかなる種類の妥協もやめなければならないというのが、大統領の確固とした意見である。領土的変更を目的としたどんな議論も許されてはならない。
合衆国は、孤立政策から脱却し、戦争の際には英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある旨を同義的に確約する。」


 これこそが、介入を約し、ダンチヒ問題に関して、いかなる平和のための妥協に対しても、はっきりと反対した、ルーズベルト大統領の戦前の干渉政策の忌むべき証拠である。ルーズベルトが、一九三九年の初めから「全体主義国家とのいかなる種類の妥協もやめなければならない」として、英仏に対し、影響力を行使していたのを証明しているのだ。ブリット大使は、合衆国は、


「戦争の際には、英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある」


ということを確約しているのである。
 ブリット大使の発言は、アメリカの不干渉主義者たちが、ヨーロッパで戦争が勃発する前に主張していたことを、まさに裏ずけるものである。それはまた、もしルーズベルトが、余計な介入をせず、英仏を戦争に追い込まなかったならば、ヨーロッパで戦争は起きず、ダンチヒ問題も、平和的に解決されていたであろうとする、ルーズベルト非難が正しかったことを証明するために極めて重要なものである。
 チェンバレン英国首相とジョルジュ・ボネ仏外務大臣の二人も、ドイツに対して戦争を起こすよう、ルーズベルトからの圧力があったことを公に認めている。
このブリット大使との会談についてのポトツキー大使の報告は、ルーズベルト大統領が、ブリット大使を通じて、また直接チェンバレン首相に対して、強力な戦争を起こすための影響力を行使したことの明確な証拠の一つである。
 合衆国大統領が、ヨーロッパの政治に直接介入し、平和ではなく、戦争を推進したのはアメリカの歴史が始まって以来の出来事である。
 私は、歴史と行政学で優等の成績で卒業した後、ハーバード大学の歴史の講師の地位をオファーされたことがある。今では、それを引き受けなかったことを後悔している。しかし、私は議会の外交委員会に二十年間籍を置き、わが国の外交政策に関しては、だいたいフォローしてきていた。その中で、合衆国大統領が、大使やその他のチャンネルを使って、ヨーロッパで戦争を起こそうとした例は知らない。
 われわれの大統領は、全員が不変の政策として、平和に賛成であった。かつて戦争を扇動したり、推し進めようとするために、自己の影響力を用いたような大統領はいなかった。
 ルーズベルト大統領が、ヨーロッパで、枢軸勢力に対抗するために、戦争を使そうしたということは、ブリット大使の行動と発言やジョルジュ・ボネ仏外相からの手紙、またチェンバレン英国首相からケネディ大使に宛てた同様の発言、フォレスタル海軍長官宛ての同趣旨の発言--これは長官の日誌にも引用されている--からも明らかである。
 また、第三章で引用した、ピアソンとアレンの書きものは、どうやってルーズベルト大統領が、チェンバレン首相にドイツとの戦争を強いたのかを教えている。
 これらすべての記述は、ルーズベルトが、英・仏・ポーランドをヒットラーと戦わせようとして、影響力を行使したことを証明しているのだ。

(本書143~145ページより)
(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))

この本は、貴重な証言があり、おおいに疑問をなげかけてくれる著書です。
アメリカの重要ポストである人も「ハル・ノート」の存在自体知らないまま、日本への戦争賛成とアメリカの世論を作っていきます。あのマッカーサーですら、知りませんでした。ルーズベルト大統領は、アメリカ国民とアメリカの兵士さえ犠牲にし、日本と戦争をしたかったのです。

ルーズベルト大統領でさえ、躊躇した日本への原爆投下は、スティムソン陸軍長官の強い意志で落とされました。原爆の研究者達は、実際に使うことには反対していました。反対意見を無視してまでスティムソン陸軍長官が押し切りました。人体実験をしたかったのです。

ヒロシマ、ナガサキの原爆記念館では、「二度と過ちはしません」と謳われていますが、日本が戦争を積極的に進んだわけでもなく、アメリカの一部の人達の願望によって、戦争に巻き込まれたのです。

アメリカには、ソ連のスパイ(共産党員)が、暗躍していました。アメリカと日本が戦争してくれれば、ソ連は安泰だったのです。諜報活動の怖さを痛感します。

現在の日本はどうなっているか?
現在の日本は、中国の諜報活動には負けています。朝日新聞の慰安婦捏造は明るみにでましたが、アメリカでの慰安婦像の設置の問題は、裏では中国が操っています。韓国人を手先として使い、隠れ蓑にしていますが本当の敵は中国であると確信しています。

日本にある「反日包囲網」スパイ組織
■中国帰還者連絡会(季刊中帰連)
■毒ガス被害者をサポートする会
■731部隊・細菌線資料センター
■VAWW-NETジャパン
■中国人戦争被害者の要求を支える会
■ノーモア南京の会・東京
■映画「侵略」上映委員会
■人民網(日本版)
■ABC企画委員会

中国にはもちろんのこと、北朝鮮、韓国、カナダ、アメリカ、オーストラリア、台湾、香港にもあり、
連携を結んで、ジャパンバッシングを広げていこうとしています。


頑張れ、日本!!中国の陰謀を蹴散らせ!と思うのでした。

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by sahorikita | 2014-09-02 16:59 | Comments(0)