さほりさんの自虐史観からの脱却

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2014年 09月 09日

インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、日本海海戦の有壮な話に、沸き立っていました。

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スパス・チャンドラ・ボース(Subhat Chandra Bose 1897年1月23日-1945年8月18日)インドの独立運動家。イギリス支配下のインドで弾圧されドイツに亡命、1943年5月16日に東條首相の招きで東京に到着。日本の支援でボースは10月21日にシンガポールで自由インド仮政府を設立、首班に就任した。これが現在のインド政府の誕生である。同年11月の大東亜会議には、オブザーバーとして参加。ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任した。インパール作戦には日本軍と共にインド国民軍を率いて戦うが、日本の敗戦から3日後、インド独立を見ることなく飛行機事故により亡くなった。

イギリスの植民地だったインドで、独立運動に身を投じていたチャンドラー・ボーズ氏。弾圧を逃れ、ナチス政権下のドイツに亡命してインド旅団(2,000人)を結成しました。1941年、その反英ラジオを聞いて支援を決めたのが東條英機首相でした。インド洋でドイツの潜水艦Uボートから日本の潜水艦に乗り換え、1943年5月16日、来日したボースは日比谷公会堂で演説しこう述べました。

以下英文
When I started going to elementary school, a country of Asian rece fought against one of the largest white empire, Russia. This Asian country defeated Russia completey. And this country was Japan. When this news reached all across India, a wave of excitement covered the entire land. At every corner of my country, people enthusiastically talked about the Battle of Port Arthur, the Battle of Mukden, and the thrilling story of the Battle of Tsushima. Indian children honestry adored Admiral Togo and General Nogi. Parents competed to buy the pictures of Admiral Togo and General Nogi invain. Instead, they bought something Japanese from the market and ornamented their houses with Japanese things. Japan was the "Light of Hope"for Asia.

Henry S. Stokes, Jaoan as "the Light of Hope in Asia" addressed on Dec. 6,2012

日本語訳

 私が小学校に通い始めた頃に、アジア人種の国が白人の大帝国であるロシアと戦いました。このアジアの国はロシアを完敗させました。そしてその国こそが、日本だったのです。このニュースがインド全土に伝わると興奮の波がインド全土を覆いました。インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、日本海海戦の勇壮な話に、沸き立っていました。インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、家に飾りました。日本はアジアの希望の光でした。
 (ヘンリー・S・ストークス 日本はアジアの希望の光 2012年12月6日講演)

■チャンドラー・ボーズの活躍の話も付け足します。
 ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝として即位してから、66年目に当たる1943年10月に、ボースを首班とした自由インド仮政府が樹立される。
 ボースは所信表明で、「デリーへ(チャロ・デリー)!」という、祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始を、宣言した。
 INA将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指して、「チャロ、チャロ、デリー」と雄叫びをあげ、そう大書された横断幕を揚げて、進軍した。「チャロ・デリー」は軍歌ともなって、今日でも多くのインド国民によって愛唱されている。ボースは将兵を「われらの国旗を、デリーのレッド・フォートに揚げよ」と、激励した。
 自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して、宣戦布告した。
 この年11月5日から6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催された。
 東郷首相、満州帝国の張景恵(ちょうけいえい)国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのプビン首相代理であるワンワイタヤコン殿下らの首相が、一堂に会した。ボースはインド代表として、参加した。
 これは、人類の長い歴史において、有色人種によって行われた、最初のサミットとなった。人類に人種平等をもたらした、出発点となった。まさに、日本史における輝かしい一瞬だった。
 ボースは、大東亜共同宣言が満場一致で採択された後に演説し、この宣言がアジア諸民族のみならず、「全世界に渡る被抑圧民族の憲章となることを願う」と、訴えた。
 ボースは1944年11月に、再度来日したが、日本を取り巻く戦況は一変していた。この年3月から、日本軍がINAとともに、インド国内に攻め込んだインパール作戦が展開されたが、食糧弾薬の補給が続かず、6月には占領したコヒマを放棄して、総崩れになって退却した。
 7月にサイパン島が、アメリカに奪われた。日本は9月にぺリュリュー島から始まって、グアム島、テニアン島といった島々を失っていた。
 そうしたなかで、ボーズの講演会が、再度日比谷公会堂で行われた。
 ボースは、雄弁だった。「アジアに住むインド人は、人的、物的資源を総動員して、日本と生死を共にする」と、訴えた。
 日本なしに、アジアの開放はなかった。1945年に日本は降伏したが、ボーズは敗れなかった。
 INAのインパール作戦からの残存兵力2600人と、マレー半島で訓練を受けていた新編師団が、バンコクに移動していた。
 ボースはこれらの兵力を中国北部に移動させて、ソ連の支援を取り付け、中央アジアからインドへ、デリーを目指して進撃する計画を立てた。
 ボーズはサイゴンを飛び立ち、8月18日に台北に到着した。日本軍輸送機が大連へ向けて離陸した直後に、エンジン故障で墜落して、ボーズは重症を負った。ラーマン副官に「私は生涯を祖国独立に捧げて、いま死ぬ。独立の戦いを続けるよう!」と遺言して、反英闘争に捧げた生涯を閉じた。

その後、イギリスはINA将校たちを、イギリス王国に銃を向けた反逆罪で裁こうとした。1945年11月5日に裁判が始まる。すると、不法な裁判を即時停止する運動が、全インドに広まった。さらに、イギリス人の引き揚げを要求する運動が、自然発生的に起きる。ボースの出身地のカルカッタでは、10万人のデモが起こる。
 その動きはとどまることを知らず、民衆に続いて、インド将兵と続き、1万5000人の将兵が愛国心に駆られて立ち上がった。
 1947年8月15日に、インドは200年に渡ったイギリスの植民地支配に終止符が打たれて、ついに独立を達成することになる。
(なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 加藤英明著、ヘンリー・S・ストークス著 祥伝社 より抜粋)

インドの独立運動を支えた日本。インパール作戦は犬死ではありませんでした。こうやって、1つの国が独立する流れを作り、強く意志を貫いたチャンドラー・ボーズ。欧米のアジアの植民地支配を終わらせる原動力になったと思うと感動的でもあります。
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by sahorikita | 2014-09-09 23:41 | Comments(0)
2014年 06月 15日

イギリス領だったビルマに多数の米軍機が配備され開戦を準備していた

GHQの押し付けた自虐史観から目覚めよう!

アメリカは日本が真珠湾攻撃をする6カ月前、イギリス領だったビルマに多数の米軍機が配備され開戦を仕掛ける準備をしていた

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元ニューヨークタイムズ東京支社・ヘンリー・S・ストークス氏は、論文『ペリー襲撃から真珠湾への道』(The Road from Perry' s Arrval to Pearl Harbor)の中で、日本開戦に関し、アメリカが隠喩してきた事実を語る。氏は1938年英国生まれ。61年オックスフォード大学修士課程終了後、64年来日、フィナンシャル・タイムズ、ザ・タイムズ、ニューヨーク・タイムズの各東京支局長を歴任。三島由紀夫との親交でも知られる。

イギリス人ヘンリー・S・ストークス氏による「100年に渡るアメリカの野望」

こちらが、原書のページ
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以下日本語訳

 私にはネーサン・クラークという従兄がいる。2011年5月に96歳で他界した。
 従兄はアメリカと、イギリスの国籍を持っていた。1941年初頭からインドに展開していたイギリス軍部隊に所属していた。階級は大尉だった。
 従兄はその年のなかばに、ビルマ(現ミャンマー)のラングーン飛行場に降りて、わが目を疑った。多数のアメリカ軍戦闘機と爆撃が、翼を重ねているのを、目の当たりにしたのだった。
 胴にはっきりと、アメリカの星マークが塗られていた。それまで、ビルマにこれほど多くのアメリカの軍用機が、翼を休めていたことはなかった。
 日本が真珠湾攻撃をする、6カ月前のことだった。従兄はこの光景を見て、アメリカが日本に対して、戦争を仕掛ける準備をしていることを、直感した。衝撃を受けた。
 職業軍人だったから、その意味を即座に理解できた。目にしたものは、戦争が始まろうとしていた以外の何も、意味しなかった。

 従兄はアメリカのルーズベルト大統領が、アメリカ国民を欺いていたことに、義憤に駆られた。従兄がこの話をしてくれた時にわたしは20代なかばだった。私は息を呑んだ。ビルマはイギリスの植民地だった。

-中略-
従兄はアメリカが隠喩してきた史実を、話してくれたのだった。私に71年前の12月8日(日本自観)に太平洋を舞台にして始まった戦争が、その前から準備されて、今日の世界へ導いたという問いかけを投げかけたのだった。

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↑詳しくは、こちらの本をお読み下さい。
 イギリス人である、ヘンリー・ストークス氏は、日米戦の原因はペリーの日本来襲の必然的な結果であることを、本論文で実証している。今や世界の良心的な知識人が、日米戦、そして大東亜戦争が決して日本の自己中心的な侵略主義によっておこされたものではないことを発言しつつある。これからそうした論を順次発表していく予定であるが、まずはこのストークス氏の論を、真正面から読んでいただきくことを願うものである。


日本語原文を今すぐ読みたい方はこちら↓
 http://hassin.org/01/wp-content/uploads/The-Road-from_J.pdf です。

資料「史実を世界に発信する会」より

戦後の歴史教育は、洗脳でしかなかったのです。
アメリカは、第二次世界大戦で、覇者を徹底的目指す野心を狙っていました。
戦後は、日本が二度と立ち上がれないように、GHQによって歴史を奪い、祖国を愛せないように日本人を改良しました。GHQに迎合して多大な金と地位を得た、戦後文化人に誇りはありません。

有名な人物としては、大江健三郎だ。
中国の核や核実験の様子を感動的と語り、日本の核はいらないという二枚舌。
憲法9条を、中国にもっていけといいたい。中国は9条はお・こ・と・わ・り!!に決まっている。

歴史的に大きく見ると、日本ほど温厚な国はありません。
中国大陸に進出したといわれるが、搾取したり、奴隷にしたりということは全くない。
朝鮮半島にも国費を注ぎ、朝鮮の近代化の基礎を残していきました。
(他国は破壊してから撤退するのが常識です。

朝日新聞の歴史認識はクソ!!であります。
毎日、中国共産党のことばかり考えている朝日新聞は潰れろ!と思っております。


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by sahorikita | 2014-06-15 15:38 | Comments(0)