さほりさんの自虐史観からの脱却

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2015年 08月 08日

捕虜になった慰安婦たち―ビルマ・ミッチーナにおける米国戦時情報局心理作戦班「朝鮮人慰安婦」尋問報告書③

  水間政憲著 PHPより

1944年10月1日、ビルマ・ミッチーナにおける
 米国戦時情報局心理作戦班「朝鮮人慰安婦」尋問報告書

アメリカ戦時情報局心理作戦班/アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域所属/アメリカ陸軍郵便局689番

日本人戦争捕虜尋問報告書 49号
尋問場所:レド収容所
尋問期間:1944年8月20日~9月10日
報告年月日:1944年10月1日
報告者:T/3アレックス・ヨリチ
捕虜:朝鮮人慰安婦20名
拘束年月日:1944年8月10日








■軍事情勢に対する反応
  慰安婦はミッチーナを退却し捕虜になるまで、ミッチーナ周辺の軍事情勢をほとんど把握しないまま過ごしていた。だがその中
 でも注目に値する情報がある。
 「ミッチーナおよび同地滑走路に対する最初の攻撃で約200名の日本人が戦士し、残された同市の防衛要員は200名程度となった。
 弾薬も非常に乏しかった」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は各地ででたらめな攻撃を繰り返した。ろくに狙いも定めずに撃っているよう
 で、まったくの無駄であった。反対に日本兵は一発ずつ、確実に命中すると考えられるときにのみ発砲するよう命じられていた」
 「ミッチーナ周辺に駐屯していた兵士は、敵が西滑走路を攻撃する前に、北部および西部での連合軍の攻撃部隊を急襲するために、
 各地に派遣された。残されたのは役400名で、主に第114連隊の所属であった。丸山大佐がこの町への攻撃を予測していなかった
 ことは明らかだ。後に第56師団の水上少尉が二個連隊以上の援軍を率いて防衛に努めたが、守りきることができなかった」
  慰安婦は全員、連合軍の空爆は激しく恐ろしいものであったと証言しており、そのため捕虜になるまでの最後の期間の大半を
 防空壕で過ごしたという。防空壕でも仕事を続けた慰安婦が一、二名いたようだ。慰安婦は爆撃を受け、死傷した慰安婦も数名いた。
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■撤退と捕虜
  「慰安婦」の撤退と最終的な捕虜に関する証言はやや曖昧で、当人たちの記憶も混濁しているようだ。複数の報告をすり合わせた
 ところ、おおよそ次のような経緯であると思われる―――七月三十一日夜、三つの慰安所(バクシンロ慰安所はキンスイ慰安所に
 統合された)の「慰安所」や家族、従業員を含む63名からなる集団がイラワジ川を渡り始め、やがてワインマウ近くにて上陸。
 一行はそこに八月七日に敵兵との交戦があり、そのときに一行は分裂した。慰安婦は三時間の間隔を置いて兵士たちの後を追う
 ように命じられた。命令に従って川岸に到達したのだが、そこには兵士の姿も川を渡る手段も見当たらなかった。慰安婦たちは
 八月十日まで付近の家屋にとどまり、イギリス人将校が率いるカチン族の兵士に捕らえられた。一行はミッチーナ、次いでレドの
 収容所へと移設され、レド収容所へと移送され、レド収容所でこの報告書の基礎となる尋問が行なわれた。

■宣伝(アメリカの宣伝用リーフレット)
  慰安婦は日本相手に用いられた宣伝リーフレットに関して実質的に何の知識も持ち合わせていなかった。兵士が手にしている
 リーフレットを数枚見かけたことがあるようだが、日本語で書かれていたために内容を理解できず、また兵士もその内容について
 慰安婦に話そうとはしなかった。丸山大佐に関するリーフレットを覚えている慰安婦が1名いたが(ミッチーナ駐屯部隊への
 アピール文書であることは明らかである)、彼女はその内容を信じなかった。他にも、ときどき兵士たちがリーフレットについて
 話しているのを耳にした者がいるが、盗み聴きしたかぎりでは具体的な情報は得られなかった。だがある将校が「日本に勝ち目は
 ない」という考えを示していたことは特記に値するだろう。

■要望
  ミッチーナで用いられた拡声器による宣伝を耳にした慰安婦はいないようだが、「無線放送」について言及する兵士の話は聞いて
 いた。
  慰安婦は、自分たちが捕虜になったことが陸軍に知られると、軍属の他の慰安婦が生命が危険にさらされるとして、リーフレットに
 よる宣伝をしないようにと要望した。ただし朝鮮で計画されているリーフレット投下では、捕虜にされたという事実を知らせたほうが
 いいだろう、というのが彼女たちの考えであった。

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■付録
  以下はこの報告書に用いられた情報を得るために尋問を受けた20名の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人の名前である。
  朝鮮人名は音訳表記である。
  名    年齢   住所
  1  ニム・シンジュン    21歳   慶尚南道晋州
  2  カク・ヨンジャ     28歳   慶尚南道三千浦ユナイ
  3  ぺ・ヨンジャ      26歳   慶尚南道晋州
  4  チンガ・チュント    21歳   慶尚北道大邱
  5  チョン・ヨンジャ    27歳   慶尚南道晋州
  6  キム・ナンジュ     25歳   慶尚北道大邱
  7  キム・ヨンジャ     19歳   慶尚北道大邱
  8  キム・ケンジャ     25歳   慶尚南道
  9  キム・センニ      21歳   慶尚南道クンボク
  10  キム・カンスン     22歳   慶尚北道大邱
  11  キム・チョンギ     26歳   慶尚南道晋州
  12  ぺ・キジャ       27歳   慶尚南道晋州
  13  チョン・パンイ     21歳   慶尚北道慶山郡
  14  ココ・サンイ      21歳   慶尚南道威陽郡席
  15  ヨン・ムジ       31歳   平安南道平壌
  16  オプ・二        20歳   平安南道平壌
  17  キン・トンイ      21歳   京畿道京城  
  18  ハ・トンヨ       21歳   京畿道京城
  19  オキ・ソン       20歳   慶尚北道大邱
  20  キム・ゴプトゴ     21歳   全羅南道光州
 <日本人民間人>
  1  キタムラトミコ     38歳   京畿道京城
  2  キタムラエイブン    41歳   京畿道京城

捕虜になった経過が報告書に詳しく書かれていますが、彼女達(朝鮮人慰安婦)は、一言も「日本に対しての憎しみは言っていません」
赤字の部分
 慰安婦は、自分たちが捕虜になったことが陸軍に知られると、軍属の他の慰安婦が生命が危険にさらされるとして、リーフレットに
 よる宣伝をしないようにと要望した。ただし朝鮮で計画されているリーフレット投下では、捕虜にされたという事実を知らせたほうが
 いいだろう、というのが彼女たちの考えであった。
 彼女たちは、他の軍にいる慰安婦の心配をしています。
 普通の判断をしているし、他の人を心配する心も持っています。

 最近の韓国からの「慰安婦ガー!とアメリカまで遠征して被害者として訴えていますが、当時の朝鮮人慰安婦の行動を
 見ていると、そのような感じはまったくなく、普通の感覚で彼女たちなりに思いやりがみられます。
 韓国や朝日新聞のように捏造する雰囲気もありません。
 この頃の売春というのは合法であり、心優しい慰安婦もいたと思います。
 それが「日本ガー!強制的につれていかれたー!性奴隷だー!」とひつこく発言するから、「ただの売春婦がうるさい!」と
 なっていくし、色々追求していかねばならなくなり、意見も言わなければならなくなってくる。
 
 そう、思って資料や文章を書く決心をした。
 なんとかアメリカでの慰安婦像を撤去させたい思いで一杯です。








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by sahorikita | 2015-08-08 17:03 | Comments(0)
2015年 07月 03日

慰安婦問題の真実―ビルマ・ミッチーナにおける米国戦時情報局心理作戦班「朝鮮人慰安婦」尋問報告書①

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  水間政憲著 PHPより

1944年10月1日、ビルマ・ミッチーナにおける
 米国戦時情報局心理作戦班「朝鮮人慰安婦」尋問報告書

f0350840_13504198.pngアメリカ戦時情報局心理作戦班/アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域所属/アメリカ陸軍郵便局689番

日本人戦争捕虜尋問報告書 49号
尋問場所:レド収容所
尋問期間:1944年8月20日~9月10日
報告年月日:1944年10月1日
報告者:T/3アレックス・ヨリチ
捕虜:朝鮮人慰安婦20名
拘束年月日:1944年8月10日







■序
 この報告書は1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチーナ陥落後に行なわれた掃討作戦において捕らえられた朝鮮人「慰安婦」
20名および日本人民間人2名の尋問に基づくものである。
 この報告書では、これら朝鮮人「慰安婦」が日本人によってどのように微集されたか、どのような環境で生活および労働を
したか、日本兵との関係や日本兵の対応がどのようなものであったか、さらには軍の動向をどの程度把握していたかを示す。
「慰安婦」とは福利厚生の一環として日本軍に所属する売春婦にほかならない。「慰安婦」という単語は日本軍独特の言い回し
であり、他の報告書では、日本軍が戦闘を行なう地域には必ず「慰安婦」が存在したと言及されている。この報告書は、
日本人により微集され、駐ビルマ日本軍に所属していた朝鮮人の「慰安婦」のみを対象としたものである。

f0350840_13255769.jpg ■微集
 
  1942年5月上旬、新たに日本の領土となった東南アジア
 地域にて「慰安」業務に携わる朝鮮人女性を微集するため、
 日本の斡旋業者が朝鮮を訪れた。この「業者」の内容は
 具体的に示されなかったが病院の負傷兵を見舞い、介助を
 したり包帯をまいたり、将兵を喜ばせる仕事であると考え
 られていた。
 斡旋業者は多額の金銭や家族の負債を返済する機会、楽な
 仕事、シンガポールという新天地での生活といった誘い文句
 を用いていた。こうした偽りのある説明を信じて多くの女性
 が海外での労働に志願し、200円~300円の前渡し金を受け
 取った。

  女性の多くは無学、無教養なだけであったが、なかには
  すでに「この世で最も古い職業」に携わっていた者もいた。
  彼女達は契約により、家族の借金返済のために受け取った
  前渡し金の額に応じて6ヶ月ないし1年の間、陸軍の規則に
  縛られ、戦時下の「慰安所の楼主」のための業務に就くこと
  となった。

  

約800名の女性がこのようにして微集され、日本人「楼主」とともに1942年8月20日ごろラングーンに到着した。女性は8名ないし
 22名の集団に分けられ、ラングーンからビルマの各地へと派遣された。派遣先は通常、日本軍の駐屯地近くの比較的大きな都市で
 あった。
ミッチーナへは最終的に四つのグループが派遣された。慰安所はそれぞれキョウエイ、キンスイ、バクシンロ、モモヤといい、
キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチーナ駐屯部隊隊長の丸山大佐は名前がまぎらわしいと不快感を示
したため女性の到着にともない改称された。
f0350840_14390944.jpg ■人格
  尋問の結果得られた平均的な朝鮮人「慰安婦」像は次のとおりで
  ある。年齢は25歳前後で、教育を受けておらず、幼稚でわがまま
  である。日本の基準からいって白人の基準からいっても美しくは
  ない。利己的で自分の話ばかりをする傾向にあり、見知らぬ人の
  前では物静かで慎み深いように振舞うが「女の武器を心得ている」
  自分の「仕事」は嫌いだと言い、仕事や家族の話をしたがらない。
  ミッチーナやレドで捕虜になった際にアメリカ兵から親切にして
  もらったことから、アメリカ兵のほうが日本兵よりも優しいと感じ  ている。中国軍とインド軍を恐れている。

 ■生活と労働環境
  ミッチーナでは女性は個室のある二階建ての大型建造物(通常は
  学校の校舎)に宿泊していた。そこが女性の寝起きし生活する場で
  あり、また労働を営む場であった。ミッチーナでは「楼主」が食事
  を用意し、女性がそれを購入するかたちをとっており、日本軍から
の定期的な配給はなかった。ビルマでの慰安婦の生活は、他の地域と比べると贅沢とすら呼べるものであった。ビルマ駐在2年目はとくにそうで、食料や物資の配給は豊かでなかったものの、欲しいものを買うための金銭は潤沢に持ち合わせていた。彼女たちは服、靴、タバコ、化粧品などを購入できただけでなく、故郷からの「慰問袋」を受け取った兵士から多くの贈り物をされていた。
ビルマ駐屯中の慰安婦は将兵とともに運動行事に参加したり、ピクニックや演芸会、食事会などに参加して楽しく過ごした。
また蓄音機も所有しており、町では買い物に行くのが許されていた。



日本人戦争捕虜尋問報告書 49号を
そのまま書き写しています。
ビルマでの慰安婦の生活は、他の地域と比べると贅沢とすら呼べるものであった。ビルマ駐在2年目はとくにそうで、食料や物資の配給は豊かでなかったものの、欲しいものを買うための金銭は潤沢に持ち合わせていた。彼女たちは服、靴、タバコ、化粧品などを購入できただけでなく、故郷からの「慰問袋」を受け取った兵士から多くの贈り物をされていた。
ビルマ駐屯中の慰安婦は将兵とともに運動行事に参加したり、ピクニックや演芸会、食事会などに参加して楽しく過ごした。
また蓄音機も所有しており、町では買い物に行くのが許されていた。


性奴隷だとか、強制的に連れ去られたとか、もうやめて欲しいですね。
それと、この頃は売春は合法であり、彼女たちは仕事としてしていたのです。
韓国が「慰安婦問題」ばかり、嘘くその証言や時代考証がおかしい理論は、
その当時の人達をも辱める行為だと思うのですが、恥の感覚が日本人とは違うようです。







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by sahorikita | 2015-07-03 13:10 | Comments(0)